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じぶんを知っていた人たち2

真理(生命の根源)と同一化された状態でありながら、

この社会(現象界)における 人間としての営みの中に身を置き、

世間的な責務を しっかりと果たしながらも

世間に感化され 染まることなく、

常に真理(すべては同じ源からうまれている 本質的に一体という認識)

の手足として、

自己の役割を演じてゆく


・・・・・・


一方で
社会的な営みからは離れ 人前にもほとんど姿を現さず ひっそりと
目立たず過ごすことを 自己の役割として受け入れる人たちも います。
いわゆる・・・・仙人みたいな、感じかな。


この現象界の仕組みへの理解が深まり、
時間や空間の観念からも開放されると、
時間や空間 物質にはもはや囚われない、
それらを超えた活動も可能とし、できるようになります。

もう少し述べると、

時間や空間の観念への理解が深まり 

一定レベルを超え 

完全に脱却すると、

過去生や前世といったものの効力も 

働かなく(無力) なります。 



。。。これは どう書けばいいのかな。。。

・・・過去・・

・・過去生・・・

・・前世・・・

・・・・・とか以前に、

時間の観念を超越し、

・・『過去』は 存在しない

・・という 領域レベルに 意識が到達し 達観してしまってる・・・

わけなので・・・

・・・そもそも 活動ないものからの・・・

・・・影響の 受けようも無い・・・

・・・というのか・・・(上手く表現できましぇん・・○| ̄|_)




・・・・なんだか 怪しい物言いですが・・・(。-_-。)。




こうした状態でもある彼ら 彼女らは
もはや地球のどこに居ようと なにをしていようと なににも縛られず
自由に移動でき、

この現象界も 霊の世界の一部であることを理解している彼ら 彼女らは
必要なものは 空気中にあるプラーナ(生命の源)
赤血球5
↑ まんまるに見えるプラーナはこんな感じ
を利用し物質化させ 活動をします。



・・・・とてつもなく 怪しい物言いですが・・・(((;◔ᴗ◔;)))。



けれど これは決してオカルトチックな話ではなく、
科学的なもの、
もしくは科学的なものとして 
取り扱われるべきものと、私は思っています。


プラーナとは もはや視覚で捉えることも可能な時代であり、

そこには すべての創造の情報があり 叡智があり、

これを正しく 取り込めるようになると、

自ずと  ごく自然に

あらゆる創造の情報と 叡智に

触れることが できます。

ただし 

この とてつもない 圧倒的なパワーと 叡智を 取り込むには、

受容する側の 条件・・、 状態が 必要と なります。

その条件に関しては、

マニュアル化して 言えるようなものではなく、

口頭や 文字での表現に 限界と危険があるので、

ここでは、これ以上の内容は 省略しますが。



ただこうしたことは 遠い昔から

一部では 熟知されていたものだったと

受け取れる痕跡は あちらこちらに あります。


曼荼羅という図にしても、

ヨガや気功 にしても。





生命エネルギーは

すべての基本原子であり、

波動であり、

全生命の根源です。



これを自由自在に集結させ、
卵子と精子の関係のように 意思(想念)を吹き込むことで 
物質化が起こります。

これはなにも特別なことではなく、
私たちの日常の現象、社会現象にも 現れていることです。

ただその多くが無意識に行われていて、気づいていないだけです。


物質的な視点では、
・・思うだけ、
・・考えただけ、
・・感じただけ、
では 相手に伝わらないものですが、

霊的視点では、
・・思ったこと
・・感じたこと
・・考えたこと
も 立派な生命活動なので 

卵子と精子の受精じゃないですが、
空中に無限に漂う 無のプラーナ意思(想念) が受精され、
それがある一定の域を超えると 現象化されるように なる

・・・と、私は感じてます(^-^)。


つまりは、
この世も あの世も 基本は同じ原理で できているということです。



この世は 物質世界

あの世は 霊(想念)の世界

という表現は 
間違ってはいないけれど、誤解も生みやすく、

それぞれの世界は 
異なるもので
 異なる場所に 
個別にあるもの

・・・かのような錯覚を与えますが。

この世と あの世は ふたつに区切られているものでもないし。

現象の基本構造・・・原理は 同じ。


これを正しく理解でき、
この世界も 霊の世界なのだという 認識ができると

重力の抵抗からも開放され、
意図的に
即座的に 
物質化も
ふたつの場所で 同時に出現するとか 

あらゆることが
可能とすることが できるという・・・


・・・・とんでもなく 怪しい物言いですが・・・(;´༎ຶٹ༎ຶ`)。



もっと身近には、
これは 私たちの肉体においても 同様のことがいえます。

とある感情 思考が製造され続け 
一定の域を超えると
 肉体という物質へ
物質化して現れるようになります。


おまけに
 物質的には
 この空間は
 ひとつの層の空間にみえますが、

実際には
 たくさんの層からなっており、
 ひとつの空間に
 それぞれの次元が 重なり合っていて
 それぞれのレベルでの 活動 が行われてます



私たちは当たり前のように 
 他者と 同じ空間にいると思いがちですが、

実際は
 視覚で捉えられる範囲内の 微妙さで
 ひとり ひとりの 存在している次元は
 異なっていて、

それが故に 
 捉え方のすれ違いや
 感じ方の個性 が生じ、

視覚には映る範囲の 微妙な異なり差ではあっても、
 その範囲内で大きく異なっていれば
  違和感を感じたり
 自然と離れる現象が起き、

微妙にことなってる範囲内でも
 近ければ、居心地がよく感じ、共通感も
 大きく感じます。

いわゆる 『波長の法則』 に値するものかな。 


存在している次元が
 微妙に ひとりひとり 異なっている。

だから 完璧に理解し合えなくても 
 それが ある意味自然であり、

だからこそ
 それぞれの存在している世界を尊重し、
 赦しあったり
 受け入れあったり 
・・・そんなことが 大切で、 
  心も 魂も 成長させているのでしょうね。



あぁ・・・(,,꒪꒫꒪,,)
結局 書きたいことが 書けたような 書けなかったような。。。
脱線ばかりの内容で 長くなってしまった。。。○| ̄|_



続きは 次回に ・*・:≡( ε:)

あ ちなみに
 
なにもない空間に 物質(香・移動・透視等含め)を生み出したから
すごい!・霊性が高い人
というのは 違います꒰・◡・๑꒱



今日も ありがと
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じぶんを知っていた人たち1



人間という 肉体の器にありながら 己の本質を見失わず 真理とともに生きた人


社会的地位や
信条 
人種 
性別
民族・・・等々
に関する 偏りの目を開放し ただ同胞愛の元に たたずむ。

歴史をみると そんな人達が時折現れていたことを 知ることがあります。

生命の根源との 完全なる一致が常にあり、
「すべては ひとつであり わたし」
という理解と 深い信頼に満たされている人の日常は 
常に 自然の摂理に対する 深い信頼に浸され 
いかなる境遇にあっても
外側のさまざまな現象に 惑わされることが なくなってゆく特徴があります。

そうした人たちの日常の行為、体験は 常に
「すべては わたし・すべては ひとつ」
という真理が 表現され続け・・・

たとえば
『非暴力・不服従』
の精神を貫き通した マハトーマガンジーのブレない精神には、
自然の摂理(平等・正義・全知・愛)に対する 
絶対的な信頼が あったように感じます



ちなみに
霊的能力と 霊性の高さは全くの別物で 必ずしも比例しているものではない
ので、真理の表現に・・・いわゆる奇跡的なことが 行使されるとは限りません

とはいえ
生命の根源と合一された状態になると、
意図する しないに関わらず、ごく自然と 摂理にそった霊の力が働くのものです。

環境による影響や 外側の作用による影響を受ける度合いは少なくなり、
どこにいようと なにが起きようと 動じる度合いは少なくなる反面、
自分の霊的波動によって 
あらゆるものに働きかける力は増し、
そうした人物が

目にするもの
触れるもの
言葉
歩く場所
想うもの

には 
ごく自然に、平等・正義・愛 の力が流れてゆきます。

普通に触れていても 魂が揺さぶられるような まばゆい光が、あらわれるのを目にし 驚いたことがあります。

また 自分の持つ影響力を理解している覚者たちは、
自分が瞳に映すもの
口から出す音
想い
の効力を素直に認め、
なかには 言葉を発することを 意図的に自粛する人もいる程に、
 常に 自分の行為に 細心の注意を払い 
責任を持ち 行動してもいます。




・・・

・・・・

・・・・・・

って・・・この文章 まとまってるかな(笑)。


キーボードを打っている最中に なんと説明すればいいのか・・・
感覚がいろいろときてしまって・・・_(゜U。」 ∠)_


どこからまとめてゆけばいいのか・・・


とりあえず、
今回書こうと思っていたところまで書いたら、
一旦 締めますね。。。。。(≡人≡;)スィマセン…
 

******************************


『あなたの中の最良のものを』

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行なうと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行ないなさい

目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行ないをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです


******************************

これは マザーテレサの言葉のひとつで、
見聞きしたことのある方も 多いかと思います。

自分の感覚に自信もなく、
謙虚というよりは 自己卑下に近い(笑)程 
周りの視線を気にしていた頃の私は、
はじめてこの言葉を目にした時 随分と勇気づけられました。

こんなふうに言葉で 人を勇気づけ、労わり 肯定し 後押ししてくれる マザーテレサの存在が、
眩しくも映りました。

また当時は、この言葉は
外側(人)に向けて 発せられた言葉
なのだと 受け止めていました。

けれど長い月日が経ち
ふと この言葉を思い返した時に、それまでとは異なる感覚が 起きたんですよね。

この言葉は
外側(人)に向けて 発せられた言葉ではなく、 
他者との関係 他者のことを述べているのでなく

マザーテレサ自身の 内部(マインド・自我意識)との関わり方について 述べていたのではないか
と。

たとえ真理を会得し 生命の根源と一体した状態であっても
自我意識の生み出すこの社会に混じり 己を見失わずに活動してゆくというのは とても大変なことです。

自分のなかに 波風が起こることも 防げない時があります。

 自分のなかに 時折起こる 疑いや 痛みや 怒り 、
自分のなかで 葛藤する出来事・・・

・・・時に 自分のなかの そられに遭遇しても

それに構わず 気にせず 惑わされず、

自分の根源部分・・・聖なる意識へと 常に目を合わせ 

行いを続けてゆきなさい・・・

そう自分自身に 伝えていたように 思えたのです。

それが最後の
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです


という言葉に 集約されているのでは ないか・・・と

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

絶対的な真理(生命の根源)と 同一化された状態の者は
この現象界における 人間としての営みのなかに身を置き 社会的な義務を果たしながら、
世間に感化され 染まることなく 
常に 絶対的真理の元に 自己の役割を 演じてゆく

どこにいようとも
この社会の どんな仕事をしていようとも
そのことが 霊性の表現に 縛りを与えることはない

しかしそれは
一切の感情や心の動きを失ったこととは 異なる

戸惑い 葛藤 
時に怒り
喜び

そうしたものも きちんと感じていたのだ

むしろ
『人間を含めた生命は 本質的に一体で 同じ源から 誕生している』
認識の元にありながら 
争いの数々を目にすることは、
それに気づかない者たちよりも 
胸に感じる痛み 悲しみは はるかに深かったとすらいえよう

彼ら 彼女らとて 人間としての弱さも 重ね抱いていたのだ

しかし それ以上に 彼ら彼女らには
生命の根源への ひたむきな愛 信頼があり
それは 物質界のどんな現象をも超えさせ 
どんな逆境においても 
それらより はるかに強く 
彼 彼女らを 満たしていた 


 直向きな愛 信頼が 常に勝り続けており 
また 努力していたのだ 

すべては 人々に 
『人間としての 生き方・在り方』
をみせることで 
誰もがその可能性を宿し 抱いている

すべての生命は 同胞 家族であり

わたしにできることは あなたにも できる

と伝えるために





の言葉は 過去にわたしが挫けそうな時 何度も何度も 伝えられた ものでもあるのですが。

その度に

伝えてる内容は とてもよくわかるよ。
わかるけど・・・・わかるけどさ・・・・
イエスとかの人物を毎回例に出されても・・・・リアル感があるような。。。 ないような・・・(T_T)。

もうちょっとこう。。。。。
「人間という 肉体の器にありながら 己の本質を見失わず 真理とともに生きる」
ことの実現の可能性を・・・・ 身近で リアルには・・・感じさせては もらえないものでしょうか・・・


と 思っていたものです

寒い日が 続いてるね
つぶやき ~求めて~2
すべては 本質的に一体で 同じ源から生まれている


生命の根源である 自然の摂理は
常に 平等であり 全知であり 不滅であり 正義であり 愛 です

すべては平等に 

適切な時期に 

適切な方法 形で

働く。


ただ この認識や理解は 観念や知識で得られるものではなく。

言葉や 形式的ななにかで 伝えられるものでもなく。

・・・・なく

・・・・なく・・・


伝えられる方法は

私にできることは

・・・・全生命の根源(絶対的な真理) と同一化した状態である

ことなんですよね。

それが 新たなカルマを生み出すことのない 自然な方法。

なにかをしようとか 
伝えようとか 
与えようとか

そんなことは 必要なく。





「争いのないせかい」
それが不可能ではない ことを知ったのは ひとつの とある体験でした。

ずっと抱き続けながらも、答えのでないこの疑問への 
焦り
虚しさ
無力感
自分が存在していることへの疑問

そんなものに襲われながらも
消えることのない ひたむきな問いかけ

そんな日々のなかで ある時現れた 巨大な とてつもなく巨大な光。

突然 呼吸が止まったかのような感覚が襲い 瞬時に肉体の感覚が消え
果てしなく広がる 無の空間 へと佇んでいることに気づき

私がみたもの。

想像を超えた
それを体験するまでは、想像することも不可能な
想像を絶する
巨大な ひかりでした。

遥か遠くから
ゆっくりと
私の方へ向かってくるその圧倒的な光は、
遥か遠い その場所からでも 
瞬時に 私の思考 五感・・・ すべての感覚を 静止させてしまいました。

静寂な中に とめどなく襲ってくる 至福の感覚は
崇高な輝きは 
私のなかの あらゆる詰まりを 瞬時に昇華させ、
私はそれを体感しながら
自然と溢れ出る 至福の涙と共に 両手を ただ静かに合わせていました。

目の前へと ゆっくりと近づいてきた その光は

幾重にも 幾重にも 押寄せる 至福の波 は
私を 完全な恍惚状態へとさせ、
想像を絶した 内的喜びを 与えてくれました。


私が なにを ずっと求めていたのか その時 知りました。

”どうか私を飲み込み 同一化させてください”

至福の状態のなかで 私はそう願いました。

しかし光は 私の願いは聞き入れず ゆっくりと私の前から離れ

再び 私の意識は 肉体へ戻り

深い悲しみと 

まだ しっかりと残っている あの光の感覚と共に  

瞼を 開けたのでした。
 

あの ひかりは

どんな言葉を用いても

表現することができなくて もどかしいのですが。

ただ その光を知ったことで、
私のなかには いくつかの 確固たるものが うまれました。

すべては 一元性であること

すべては ひとつであること

私たちが 本当に求めている  満たしてくれるものとはなにか

それを体感したとき 

争い という観念は 消え去るということ


また 
「あのひかりの ひと滴でも・・・欠片の欠片の その欠片でもいいから わたしは なりたい
 それがどんなに遠く 不可能と思えるものだとしても。
 たとえこの人生で 実現することができなかったとしても、
 決して 諦めない」
という 強い衝動が 湧き上がりました。



あれから 約15年・・・
実をいうと、
1カ月ほど前に 2度目の その光に 遭遇する機会を与えられたんですね。
ゆっくりと 再び 私の前を 通り過ぎてゆきました。

もう少し詳しく述べると、
1度目の時も 2度目の時も、
どこまでも広がる 無の空間には、私以外の人の存在も ありました。

私以外に 1~5名位。
そのなかには
ひかりに吸収された人。
まだベストなタイミングではなく  光が通り過ぎる人。

どちらにしても、
地上への 霊的な働きかけは 常に行われているのだと 知ることもできました。 



人間という 肉体の器にありながら 己の本質を見失わず 真理とともに生きた人

マザー・テレサ ガンジー  イエス・キリスト
。。。歴史には それを体現した人物がいて。


といっても、
 全生命の根源(絶対的な真理) と同一化した状態
の人は、歴史に名を残すとは限らなくて。


ごく普通に、社会や世間にひっそりと混じっている人

社会や世間から離れ ひっそりと篭り生活している人

それぞれの担っている役割により、
表現の仕方も異なっています。



次回はもう少し、この辺を書いてみたいと思います。


o(__*)Zzz今日は寝ます
つぶやき ~求めて~1
つぶやきです。

    幼少期から、自分がずっと探し求めていたもの 編


「争いのない世界」

世界的な視点でみれば、
戦争 事件 貧富 差別

身近な視点では
陰口 イジメ 暴力(想いの暴力含め)

そうしたものが存在していることに 悲しみと違和感が拭えない 幼少期でした。

なぜそれらが 行われるのだろう

なぜそれらが あるのだろう

なぜ 人と人が争うのだろう

なぜ命と命が 奪い合うのだろう

どうしたらそれらは なくなるのだろう


その問いかけが消えたことは なかったといえます。


争いや痛みのない世界は 不可能なのか。

それらがない世界を求めるのは 夢事なのだろうか。


実際
『それを求めるは夢事 理想事だ』
と 耳にタコができる程 人に言われてもきました。

『優しすぎるのは傷つくだけだ』
と 聞き飽きる程 心配され注意も受けてきました。

それでも 争いの湯船に身を委ね 生きる位なら 生きることをやめた方がいい と
頑なに自分を貫き通し 
結果 とても世渡り下手な こんな人間に なってしまいました_(:□ 」∠)_。




ふたつめの ずっと探していたもの

「永遠」
小さい頃は 
永遠がある
と なんの疑いも抱いてはいませんでした。

けれども成長するに従い そうではないことに 気づいてゆきました。
特に 恋も知らない幼き頃は、恋愛本など読むと

強い愛を誓った男女の気持ちが変化する 

生涯の信頼を約束した感情が 変化する

ことに謎だらけで 悲しみだらけで仕方なかった(笑)。

すべては絶えず変化し続けてゆくという この世界で、
決して揺るぐことのない
 絶対的な信頼の置けるもの 
永遠はどこにあるのだろう

それを 探し求めていました。

結果 とんでもない量の痛みを 味わいもしました_:(´ཀ`」 ∠):_ … 。




みっつめの ずっと探していたもの
「じぶん」

ずっと「じぶん」が謎でした。

「私」とは なんなのだろう

この生の 名前がつく前の「じぶん」とは

この生を受ける前の 「じぶん」とは

「心」に「じぶん」があるのか、

ずっとずっと続いてきた「じぶん」
 「じぶん」とは なんなのだろう

この疑問は 小学中学年時期から思春期に向け どんどん強まっていった疑問でした。

答えを探して 沢山の大人に尋ね、沢山の本も手にしました。

結果 どこからも答えが得られず 答えを求めたさらなる旅へと 

早々に親元を離れることとなりました(:3っ)っ 三=ー。





と、こんな感じで・・・
・・・・この3つの疑問を抱き、
 模索し 葛藤し 探求してきたのが私の人生・・・
・・・とすらいえる程、
この3つへの探究心は どうしようもない衝動であり
 常に 切り離すことのできないものでした。







何度も書いているように、
この世界に起きる現象は 幻想であり錯覚です。

それが故に この世界の現象は うつろい 儚い 変化する という性質を抱えています。

『諸行無常』
という言葉も ありますね。

けれどそれは 嘆き悲しむことではなく、
一方で 救いと創造の性質も抱いてもいます。

常に変化するこの世界だからこそ やり直すチャンスも掴め、
 常に変化するこの世界だからこそ 今この時を大切に 精一杯生きるチャンスも得られる、という性質。

また この世界の現象が幻想 錯覚であるとはいえ、
これらもまた
 『全生命の根源』 
の息吹です。

ありとあらゆるもの・・・
 現象 物 場所 想い 空間  
すべては ひとつの場所から はじまっているものであり 
すべてには その根源の息吹が 流れています。

すべては 全生命の根源の 活動 観念 想念 であり、

八百万の神々

キリスト意識

「皆 兄弟姉妹」
「汝自身を知れ」

表現は異なれど 伝えている基本は同じであり、
そこに「永遠」「じぶん」
があり、「わたしは なにものか」

への答えがあり、

すべては 本質的に一体で 同じ源から生まれている

これは 揺るがない 真実であり 真理であり 不動の原理です。


真理は 至ってシンプルであり 単純でありながら、
それを取り巻く もろもろのものは とても複雑です。

しかし 
複雑といえども、生命の根源である自然の摂理は
常に 平等であり 全知であり 不滅であり 正義であり 愛 です

すべては平等に 

適切な時期に 

適切な方法 形で

働くように なっています。



この真理と 摂理への 深い認識と理解は 平和への道を 自然と生じさせます。

そして この真実を手にした人の
瞳は
仕草は 
言葉は

深い自信と 
真の ポジティブシンキング・・揺るがない信頼と
赦しの微笑みに 満ち溢れるようになります。


ただ この認識や理解は 観念や知識で得られるものではなく。

言葉や 形式的ななにかで 伝えられるものでもなく。

・・・・なく

・・・・なく・・・





・・・・ここで 長い間 私は躓いているわけですが。。。




・・・・・・というところで、一旦区切ります


お願いします☆

続きを読む
だいぶズレておりますが・・・・2019年よろしくお願いします☆

2019年も始まりましたね~(遅!)。

中途半端なままで 放置プレイとなってしまいました。
・・・過去記事がね、あそこで終わってたもので。。。(*ノェノ)スミマセン。

とはいえ実際には、今の私で その続きも書く予定ではおりまして・・・おりましたのですが、

なんというか・・・

メモ書きした用紙1


これ、この記事を書くにあたって 今目の前に広げられているメモ用紙ね。

これはごくごく一部で、こんな風にメモ書きされた用紙が 自分でも手に負えない状態で大量にありまして。

このブログに書く内容をはじめ、その他もろもろの必要な知識や智慧は、
私の場合内なる案内人もしくはガイドたちから伝えられるものになるのですが。。。

なるのですが。。。、
以前もどこかで書いた事があるかと思うのですが、
この伝わり方というのがですね、

私たちが一般的に使用する言葉のやりとりとは大きく異なるものでして。

たとえば、
言葉というのは 基本一列に整列されたものですよね。

まずそこからして大きく異なるのですね。

ぜんっぜん、ぜんっぜん 一列じゃありませんっ。
ひとことに、上下左右 奥行き 感覚 が まずあります。
一瞬のなかに 何十年 何百年という 時の流れが 含まれていたりもします。

ひとことで この濃さのものだから、
一行分の内容になったら とんでもない濃さです○| ̄|_。

瞬時に伝わる これらの内容を書き留める作業には、いつまで経ってももどかしさを感じ 不十分さを拭い切れないものです。

かといって
伝えられる内容を なるべく多く形に残そうと 一心不乱に手をシャカシャカ動かせば、
後に
「自分で自分の書いた文字が読めない・・・(T_T)」
というオチになってしまうし、
 なるべく丁寧に言葉でまとめようと思考が動けば、その瞬間パイプが弱まり 感じにくくなってしまうし。
勉強内容のように 記憶にすべてをしまっておけるものとも違うし。

私が受け取るように 私が これを読むみなさんに伝えられれば誤差も生じないし一番なのですが、
私もそれができる程 進化した人間でもなく○| ̄|_。

いつも もどかしさに襲われながら それでも諦めず せっせとメモ書きをしている状態です。

そしてそれを 日常の隙間時間を見計らって さらに整理し まとめながら 

『この言葉を使用して 誤解を生ませてしまわないかな。。。(悩)』

『これはアップして大丈夫な内容なのだろうか。。。(悩)』

『どう表現したらいいかな。。。(悩)』

と、このブログに打ち込んでいく有様です。


もっとコンスタントに アップしてゆければいいのにね。
なかなか、修行が足りません(笑)。

それでも こうして 表現できる場所があること
見ててくれる人がいること
応援 見守り続けてくれる人がいること
・・・・本当に幸せなことです。


なんて書いているうちに、
夕飯の準備をする時間が きてしまいました。


また改めて メモ書きたちを整理してゆきます(笑)。

2019年
このブログだけではなく、
再びリアル活動もしてゆく予定でいます。

すべての人に 可能性は無限大 と伝えてゆくために
真の平和と なるために

どうぞ よろしくお願い致します




((⊂(^ω^)⊃))



見せられた光景5

引き続き 長年眠っていた 非公開過去記事をアップします・*・:≡( ε:)

↓ ここから先は 長い間 非公開のままだった過去記事になります


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


見せられた光景1
見せられた光景2
見せられた光景3
見せられた光景4


マインド(自我)の世界は 
映像(感情)を映し出し続けることで
私達を 惹き込み続けます。

ずっと ずっと 夢の中に いるようにと

ずっと ずっと 夢を 見ているようにと


真我との 分離状態 を 
自我は起こさせるのが趣味であり、

「わたし と あなた」
「わたし と なにか」
「わたし は ひとり」
「みらい と かこ」。。。。等々

に装飾された部屋で
 閉じ込めておこうと 悪戯し続けるのです。



でも真実は 私のほかには なにも 存在していないのですね。

外の世界にあると感じている すべては・・・
私以外のものと思い 感じているものは・・・、
実際は 私自身の内部にあるものの反映
に 過ぎません。

つまりは私は創造者であり あらゆる可能性と現実を起こす可能性を帯びている
限界のない 存在
だということです。
 
・・・といわれても 
目の前の出来事はリアルで 生々しくて、
ピンとこない・意味が解らない ように感じるかと思います。

それほどまでに 自我は 仮想世界に たっぷりと 私たちを浸からせているかと思います。

だって そのことに気づかれないように 私たちを 仮想世界に上手に惹き込み続け、
夢を見させ続け 支配しておく事が 自我の役割だから。

私のほかには なにも 存在していない
それに気づくことは 簡単に出来ないよう ゲームは 仕組まれています。

真実は単純なのに、
それを取り巻くものは とても複雑な ゲーム




私という存在は
 
創造者であり 

あらゆる可能性を帯びていながら、

多くの場合は、

「私という存在は ひとりであり ちっぽけで無力あり 
この世界で起きている 多くのことに なにもできない」

と思い込ませ、

その力を 封じ込めさせようと 

悲観的に なるようにと

多くの罠が 仕組まれています。



その最大の罠が 自我(エゴ・感情)であり、

自我は 常に 二元性を 私たちにみせます。

二元性をみせ 分離感を 与えるのです。


目の前の 

遠くの

人・物・出来事は 自分とは別々のもののように、

私とは区切られた存在かのように、

幻想を 抱かせ続けます。



そして それらをみて、

私たちは 様々な感情を抱きます。

実際には自分(もしくは自分の欠片という表現でもいいですが・・・) をみている行為で、

つまりは 鏡写しなのですが

分離した意識では そこに気づくのも 困難だったりします。



誰かや なにかを 
認めたり 受け入れたり 批判したり 中傷したり 否定することは、
自分にしている行為であり、

反対に
自分を 許したり 認めたり 傷つけることは
すべてに対しても 同じ行為を行っていることを

感じさせないように しています。



逆をいえば、

『すべてはわたし』 と 深い洞察と理解の元に、
自分は創造主と思い出し ハートが開いた時
自分を含めた すべての生物 出来事 を むやみに傷つけることは
なくなるでしょう
自分の行為や 想いに もっと注意深く なるでしょう









鏡の前に立っている姿を想像してごらん。

君は今、鏡の前に立っている。
鏡には、自分の姿が映っている。

鏡の中の自分を見つめながら、問いかけてごらん。

「鏡の中の自分には意志があり感情があり、独立した姿があるだろうか?」

多分君は、NOと答えるであろう。


なぜならば、
鏡に映る自分の姿は、あくまでも映し出された自分の姿であり
その姿の本体はこちら側・・・ここにいる自分だと理解しているからだ。

しかし、もし<本体はこちら側にあるこの自分>であるということを 理解していなかったら、
気づいていなかったら、君はどう思う?。

鏡に映っている自分の姿を見て、君は一体その人物を 誰だと思うのであろう。



これは貴方のマインド・貴方の心に刻々と映っている現実として 喩えられる。

あなたのマインドは、今鏡の前にある。

そして鏡には、マインドによって映し出されている現実(世界)が刻々と流れている。


もし鏡のなかに流れている現実を、
マインドが映し出している映像と理解していなかったら、
あなたは 鏡のなかの世界を どう受け止めるのであろう。

その場合あなたは、鏡の中に流れている現実を「映し出されているものだ」とは認識できない。

それは確かな現実であり 世界だと 錯覚し認識する。

もしあなたがより確かな現実をみたいと望むのであれば、
今あなたがみている現実を、
<これはマインドが 鏡の前に立ち そのマインドが映し出している、鏡の中の世界である>
ということに気づかなくてはならない。


これまで絶対的と映っていた現実は、実はその現実(反応)は、マインドが鏡に映し出している世界(反応)である
ということに 気づく必要がある。


マインドは常に 揺れ動く性質を持っている。
ゆえに鏡の中の現実は、常に揺れ動く。

だからあなたはひとつのことに迷い、悩み、困惑し、前向きになってみたり
悲観的になってみたりする。

通り過ぎる ありとあらゆる現象に、あなたのマインドは 敏感に反応する。

反応がマインドからきているものである以上、
その反応に 不動的な安らぎは訪れない。

不動的な安らぎを求めるのであれば、
マインドの向こうにある神聖な領域に 触れてみることである。

そこにはどんな反応にも飲まれず、巻き込まれていない貴方が存在する。

そしてその神聖な領域には、
心を通し 触れることができるのだ。





コタツから出るのに、ちょっとした勇気がいる今日この頃•( ꒪⌓꒪)

見せられた光景4

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見せられた光景1
見せられた光景2
見せられた光景3


「今まで自分は 仮想世界で 生きていた」
という 今まで真実として当たり前としてきた現実が、
実はそうではなく、
仮想世界であったということの、体感後に起きた「見せられた光景」


・・・・・仮想世界であった・・・・

とは、
つまりは
マインド(心)の世界で 生きていた
ことに気づいた・・・ということになります。

ここで少し このマインド(心)の世界
について 書いてみたいと思います。

あの時の 〔見せられた光景〕後の
己をみよ
という 音の無い ・・・しっかし強くて執拗な? 声に導かれ
私はマインド(心)の世界に より注意深い観察を 静かに行いました。


マインドの世界(仮想世界)
へと引き込む最も大きな要因は、自我です。

エゴとか感情といった表現方法でも構いません。

映画「マトリックス」のエージェント スミスもイメージしやすいかと思います。
詳しいことは省きますが、
あの映画は 目覚めの映画としか思えないような 内容だから☆。

で・・・
心・・・マインドとは どういった生き物なのか、
どんな作用を 私たちに 及ぼしているのか



マインド(自我)とは
常にせわしなく動き 
私たちの思考や肉体を囲っては コントロールしようとしている生き物です。

ここではマインド(自我)を 敢て「生き物」として書いてゆきます。
なぜなら 
マインド(自我)は あまりに長く 近く 私たちに寄り添い続け
そのせいで同一化されてしまっており、冷静に観察することが 困難にすらなってしまっているからです。

実際 多くの場合、私たちは マインド(自我)という生物に 支配されています。


マインド(自我)は 常に動き 大変よく働く生物で、
常に なにかに依存しようとする習性を もっています。

その手際の良さはピカイチであり、
誰にもさとされない身軽さで 瞬時瞬時で行う。
まさに エージェントスミスです。

そしてその凄腕に 私たちも 知らず知らずのうちに のみ込まれてしまうのです。
のみ込まれていることにも気づかず のみ込まれ続ける・・・。



それは テレビやゲーム、映画を 
我を忘れて没頭して観ている状態 に 
とてもよく似た現象。



これは ラマナ・マハリシの喩え話になりますが。。。 

もう私がなにか書くより ずっと上手く表現されているので、
ラマナ・マハリシのたとえ話を そのまま書いてみようと思います。


あなたの本性(真我)は、
たとえば映画のスクリーンのようなものである。

スクリーンのなかでは、
いろいろな物語があり、
アクションがあり、
よろこびがあり、
悲しみがある。

そこでは、映画(人生)がおこなわれている。

それはたえず
変化している。

そして、
あなたはその映画(人生)が自分だと思い、
映画と自分同一化し、
よろこびと 苦しみという サムサーラ(輪廻)のなかで
苦しむのである。




「私」とは 映画ではなく、
映画が映し出されているスクリーン(真我)。

そのなかで織り成されている いろいろな物語の流れ(マインド)。


映像は変化し続けるけど、スクリーン(真我)はあくまでも白い幕のまま。

スクリーン本来の姿は 変わらない。

流れる映像・なにものにも 影響を受けないもの。

けれども そのことを忘れてしまった時、
マインドの世界(仮想現実)は
自分にとっての 真実の世界となってしまう。

ということですね。



ほかにもたとえば。。。こんな喩えもできるかな。。。


テレビを観たり ゲームをしている。

最初は テレビを観ている・ゲームをしているという客観的な認識があっても、
夢中になり感情移入が深まると、
いつの間にか
自分とテレビ・ゲームの境界線を見失ってしまい
テレビやゲームの中のストーリー、登場人物同化してしまい 一喜一憂し、
やがては その世界で起きたことに 自分が影響されてしまっているようになる。

テレビやゲームの世界に 飲み込まれた状態へと・・・。

おまけに、
私達の気を少しでも惹こうとする テレビチャンネルは沢山あり、
ゲームは 次から次に 新しいものが生み出されます。


私達を虜にさせるための、
飽きさせないための
細かな配慮が
絶えずあちこちで起きています。


<映像を観てる>
という認識があるうちは、
客観視できてるので、
流れる映像には振り回されにくいですが、

「これはテレビだ」 「これはゲームだ」
ということを見失ってしまうと、
映像は 映像でなくなってしまう。

映像は 本物の現実 と化してしまいます。


これと同様なことが、
私達の 意識世界でも 起きていて。

マインド(自我)の世界は 
絶えずうごめき 
魅力的に振る舞い、
映像(感情)を映し出し続けることで
私達を 虜にさせ続けます。

ずっと ずっと 夢の中に いるようにと

ずっと ずっと 夢を 見ているようにと






その状態が、
真我との 分離状態 
であり

その夢の部屋は

「私と貴方は 別の存在」
「あれは 物」
「人生は 大変なもの」
「私は非力」
「楽しいことは あっという間に過ぎてしまう」
・・・等々

の装飾で 飾られていて。

私たちを その状態で 閉じ込めておこうと するのです





まだ 続きます/苦笑


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見せられた光景3

時間が あいてしまいました (人´∩`)スイマセン

応援ポチを ありがとう☆。


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見せられた光景1
見せられた光景2



真っ赤に・・・赤黒くさえ感じる 空から降りかかる 大量の火の粉。


連なる山々が 崩れ落ち、そこから転がり落ちる 巨大な岩たち。


激しくぐらつき、ひび割れを起こしてゆく  地面。


あちこちで 燃え盛る 炎。


荒れ狂う 風。


凄まじい  轟音。


それらが幻想であることを必死で伝えても
私の声は 空に消えてゆくだけの
誰の耳にも声が届かない 無力感

・・・

・・・

私は 先程まで一緒に居た、cここまで私を連れてきた人物に 叫ぶように心の声で尋ねました。


(どういうこと!!!)


(こんなことを起こしてはならない。こんなことは、避けなくてはならない。だから私は ここにきた)

その言葉を最後に、

その人は
いつか再び
今度は肉体で出逢う時が来ると約束し、

私は
迎えに来たガイド達に連れられ 猛スピードで 肉体へと戻ったのでした。


。。。。。

。。。。。

。。。。。


。。。このお話は ここまでです。



この話を読んで、皆さんどう感じましたか?。

正直に言うと 私は目が覚めた後も しばらくの間理解に戸惑い 呆然としていました。

その後も 数週間・・・数ヶ月・・・頭から離れませんでした。




(なにを 伝えようとしたのだろう。。。。

。。。。いつだってヒントだけで 答えはいつも 風の中 。。。

_| ̄|○ガックリ・・ _| ̄| ))ブルッ ・・・_| ̄D ウニョ ・・・ _| ̄D ニュゥゥ・・・)



とはいえ あれは
 
人の心の内面的仕組み・
 私達の心で起こっている現象を、解り易い形で示してくれた


ものであることは 理解できていました。




崩れ落ちる山々は 自己信頼の崩れ。  

容赦なく飛来してくる岩の数々は 自己の不信感が生ずる自己攻撃の数々。

何処からともなく舞い落ちる大量の火の粉は 恐怖の感情がもたらす現象。

巨大なひび割れと共に崩れ落ちる地面は 怒りの感情がもたらしている現象。

逃げ惑う人々は そうした感情に苦しみ 縛られ 振り回されてしまっている状態。 



火の粉や 飛石や 地割れが 本物だとみているうちは、
それらは本物の熱さ 痛み 落下 として訪れる。


けれどもそれらが 実は幻想だと気づいた時、
熱さや 痛み、落下は もはや恐いものではなくなり、自分に訪れることはない。



あの時 目の前に突如広がった光景に

私は一瞬にして心奪われ

目の前の光景に 反応を起こし


ひとりでも多くの人を助けたいと飛び込んでゆきました。



けれども肉体に戻り 目を開けた後 感じたことは、

本当にひとりでも多くの人を助けたいと望むのであれば、

私は 振り注ぐ飛石や 火の粉 噴火に 地割れに飛び込むではなく

それらは、

実は 幻想なのだと伝え、

熱さや 痛み 恐怖から 解放してあげるべきだった・・・のだと思いました。


でも私は あの光景に 一瞬にして心が反応してしまい
本物と思い 心の反応に応じた行動を 取ってしまったのです。






やがて 間もなく私は、
「己をみよ」
という
音の無い 言葉に導かれ 
自分の心と 向き合うように なってゆきました。



自分と向き合い 自分の奥底の感情が ひとつ またひとつと解放されてゆくにつれ、


徐々に 私のみる世界から 

ひとつ またひとつと

争いが 消滅してゆくことに気づゆきました。



内なる世界が変わることで

外への映る景色が変わってゆく。

外への景色が変わることで、

自動的に自分の言動・行動が変わってゆく。



争いの変わりに 穏やかさが、

焦燥感の変わりに 活気が、

不安の変わりに 信頼が、

恐怖心の変わりに 安らぎの心が。



急ぎ早に歩く行動から 

足元の小さな生命への優しさに。

肉体維持の為の食事から 

生命と共鳴する食事のあり方に、。


息苦しさすら感じていた人間関係の感情から 

自信と慈しみの感情に。


少しずつ私のなかで膨らんでゆく。




内が変わることで

外が変わる

一滴の朝露が 泉に零れ落ち 波紋が広がるように、

泉全体と 繋がり 溶け込んでゆく。



それは

平和が生み出されてゆく仕組みを

体感してゆくような作業でした。

平和な世界とは、

ひとりひとりの意識の状態が 創造してゆく 世界。



同時に 「己をみよ」という作業のなかでも

あの私が見せられた光景を、

あの一連の出来事を 思い起こしては

想いを馳せていました。


そのまま単純に 
人の心の内面的仕組み・私達の心で起こっている現象
と解釈して 終わりにすることもできました。


けれども私には どうしても それだけではない感覚が 拭いきれませんでした。

心・・・マインドとは どういった生き物なのか
どんな作用を 私たちに 及ぼしているのか


静かに 眺め続け 観察してゆく日々が 続いてゆきました



続きます


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見せられた光景2

このブログも随分と長く休んでいたからね、いろいろと整理してます。

実は 書いたもののアップしてないものも結構あって。
削除しつつ 削除に躊躇しつつのものもあり/笑。

なので、せっかくなので削除に躊躇する記事は アップしちゃおうと思います  

|電柱|ー ̄) 隠れニヤリ



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見せられた光景1

相手の人が 腕をひと振りふた振りすると、

同じ場所でありながらも 空間(次元)が 変わってゆきました。


それはとても 不思議な感覚で 経験でもありました。



いわゆる [次元] というもので例えるならば、

3次元から 4次元 

4次元から 5次元へと

空間が 移動をしていることを、直感的に理解もしていました。


4次元前後では おそらく 3次元との違いは 普通にはほとんどわからないかと思います。

見える光景も 物質感も ほぼ変わりません。
ただよくよく注意してみると 空間や質感の軽さが感じ取れる、そんな程度です。


4.5レベルを過ぎてくると、視界に移る光景に[流動性]が微妙に感じ取れてきます。
いわゆる想念の世界であることが 視覚的にも感じ取れてきます。

・・・

・・・

一定ラインの次元を超えたところから、

私の瞳に映る景色に 変化が現れ、

そこでは 部屋の景色が

揺れ動く陽炎のような、不安定にも感じる景色へと なっていました。


そこは 景色が絶え間なく 変動する世界。

景色の自由自在な変化が 起きるかのような世界でした。



・・・・・

・・・・・

「話すより 見せた方が早いから」

と相手が言った瞬間、

一瞬ものすごい勢いで 景色が歪み、

そうかと思った 次の瞬間には、

先程とは全く別の光景が、いつの間にらや

目の前に広がっていました。




静かに佇む 私達のすぐ目の前に 広がった光景。


。。。
。。。
。。。


それは

崩れ落ちる 山々。


容赦なく 飛来してくる岩の数々。


何処からともなく舞い落ちる 大量の火の粉。


巨大なひび割れと共に 崩れ落ちる地面。


そして慌てふため 逃げ惑う 大勢の人、 人、 人。

なかには 人混みにもみくちゃにされ、地面に うつ伏している 人もいました。




空は真っ赤に染めあげられ 

激しく渦巻きとてつもない轟音が 

響いている。



・・・・・  想像を絶するような 悲惨な 光景でした。





その光景を見た瞬間、

私は思わず 上空を見上げ

身構えました。



けれども 不思議なことに、

私達の立つ場所は


先程までと変わらず

とても静かなまま。



すぐ目の前では

とてつもない光景が広がっているのに、


私達の立つ場所には

岩も 火の粉も 地割れも ないのです。




再び 前に視線を向けた私は、


躊躇することなく

目の前の光景に

走り寄って 行きました。



慌てふため逃げ惑う人達を

一人でも多く

安全な場所へと

連れ出したかったのです。



地面に転がっている 2メートル強の大きな板を頭上に掲げ、

上空から大量に降る 火の粉をさえぎりながら

その板の影に 数人の人を入れ

遠くに 逃げようとしました。



荒れ狂う 台風時の雨のように、

火の粉は上から横から容赦なく

降りかかってきました。



その火の粉に 当たるまいと 

必死に板を盾にしながら、

荒れ狂う火の粉から 

みんなを必死で守ろうとしながら、

私は 大声を張り上げ

周りの人達を 誘導しようとするのですが、

凄まじい轟音の前においては、

私の声など

あっという間に かき消されてしまうのでした。



それでも 2人の人物を

なんとか 自分の掲げる板の下に潜らせ、

凄まじい景色と 

人混みを

必死で潜り抜けながら

かろうじて 

屋根のある建物の下まで

連れて行きました。




そして再び 一人でも多くの人を救おうと

再度 火の粉と 岩と 地割れの 荒れ狂うなかへ

飛び出してゆきました。




その時、

私が盾にして使っていた板が

パニックに陥りながら 逃げ惑う人達の波によって

さらわれてしまったのです。



瞬間的に私は、

身も焼けるような熱さに 襲われることを覚悟し

体を こわばらせました。





が、その熱さは襲ってはきませんでした。


目を開き

上空を仰いだ私は、

そこで不思議な光景を目にします。



真っ赤に・・・赤黒くさえ感じる 空から降りかかる 大量の火の粉。


連なる山々が 崩れ落ち、そこから転がり落ちる 巨大な岩たち。


激しくぐらつき、ひび割れを起こしてゆく  地面。


あちこちで 燃え盛る 炎。


荒れ狂う 風。


凄まじい  轟音。






その真っ只中に いるのに、

私は 

ちっとも

熱くも

痛くも

落ちることも

しないのです。



火の粉も 岩も炎の風も 地割れも 

自分には ちっとも 痛くも かゆくも ないのです。



私は 周りの人達と 同じ空間にいながら、

独り取り残された 気持ちになりました。



それは 同じ状況下にいながら、

ひとり全く別の空間に いる気分でした。





(これは幻想だ。 炎も 火の粉も 熱くはない!!!)



そして今度は 

そのことを必死に大声を張り上げながら

周りの人に伝えました。





でもその声が、

誰かの耳に届くことは ありませんでした。

状況が変わることは ありませんでした。



私は 向こう岸からこの一連の出来事を眺め見つめていた、

先程まで一緒に居た、ここまで私を連れてきた人物に 心の声で尋ねました。


(どういうこと!!!)




するとこう返答が返ってきたのです。


(こんなことを起こしてはならない。こんなことは、避けなくてはならない)




続きます


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見せられた光景 1


このブログも随分と長く休んでいたからね、いろいろと整理してます。

実は 書いたもののアップしてないものも結構あって。
削除しつつ 削除に躊躇しつつのものもあり/笑。

なので、せっかくなので削除に躊躇する記事は アップしちゃおうと思います  

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せっかくなので、これを機に「私が瞑想会を開きたいと思ったのか」を、
久しぶりにシリーズ化で書いてみようと思います☆。

*********

2006年・・もっと前・・後・・かな(゜゜)??。とにかくその位の時期の、
<ある朝目覚めたら、すべての見え方(世界)真逆になっていた>
という個人体験が起きた時。

それは

「今まで自分は 仮想世界で 生きていたんだ」

という腰が抜けるような、天地がひっくり返るような発見だったのね。

今まで真実として当たり前としてきた現実が、実はそうではなく、
真実どころか仮想世界であったという衝撃、常識が覆される現象。

おまけにその発見と同時に、今まで真実としてきたものが今度は霧がかってみえてしまうという、
すべてが客観的にみえてしまうという奇妙な現象が起きて。

今まで感じてきたものが感じなくなって、

変わりに今まで感じたことのないものが感じるようになって、

今まで見えてたものがみえなくなって、

それと引き換えに今までみえなかったものがみえるようになって。

こうした体験後、様々なことへの見方・認識が変化してしまった自分。

自分がね、仮想現実の世界で生きてきたという発見は、

自分はずっと 自分のマインドの世界で 生きていて みていた

という発見だったの。

それは 正に「映画マトリックス」 

L(・o・)」 オーマイガ


これは そんな発見の間もなく後 起きた体験です^^。

*********

子供の頃から睡眠中何処かに行くというのはあっても、
でもそれはいつも「気づいたら起きていた」というもの。

それがあの頃初めて、 
「意識している状態で肉体から抜け出て何処かに出向く」
という体験をしたのね。

それは数人のガイドの手助けによって起こったのですが。

当時、そうした行為を自分でコントロールすることの出来なかった私は、
意識を保ちながら肉体から抜け出るというのは
ガイド達に両腕を抱え込まれながら行うのが精一杯の状態。

それは、
自分が 頑張ってやっと通れるくらいの、

ほんの少ししか開いていない部屋の窓から

よじ出るような感覚。



もちろんスムーズにできるはずもなく、

窮屈ななかわずかに開いた窓から、

窓の向こうから手を引っ張られながら

無理やり体を押し通すような 行為であり

時間も掛かる行為でした。



そうしてやっと抜け出た私は、

再びガイド達に両腕をつかまれ

時間も空間も存在しない

世界を真っ直ぐに進み、

とある場所の

とある人の居る 場所へと

連れてゆかれました。





その人は 

物質世界で 

会議用テーブルを挟み

仕事の 打ち合わせをしている最中。


私達が近づくとその人物は、

最初

「しっしっ

と顔も注意も向けずウザったそうに私達をあしらいました。


それに対し

私をここまで連れてきたガイドのひとりが

「わかりました」

と丁寧にお辞儀をすると、

その人物は その対応になにかを感じたかのように、

私達の方に顔を向けました。


そのまま  私の両脇に居る存在達(ガイド)と 軽く会釈を交わし

しばし見詰め合い、

続いて 私の方に 顔を向けてきました。



口をきくこともできない私(正確には、この状態で 口がきけるかどうかも わからなかった)

目の前にいる人物は 真っ直ぐに私の瞳を見、

私は見つめられるままにし、

そうして数秒間見つめあいました。


この<見つめ合い>は、

この人物に限らず

肉体ではない状態で 初めて誰かと逢った場合
よくされる行為なのですが、

これは言葉やなにかではなく、

<見つめ合う>

行為で

私を見  私の情報を  相手が知る  行為です。


つまりは 相手が私を <読む> のです。
(とはいえ 誰もがこのコミュニケーション方法が できるわけではありません)


<見つめ合い>によって相手は

私がどんな状態か・

どんな人間か・

なにを思っているのか・

なぜここに来たのか・・・


浅いところから 深い場所に至るところまでの 誤魔化しの利かないすべてを 読んで

私を知ります。

その間、私も相手に見せることを許可し身を任せ見つめ合います。

それが言葉よりなにより一番手っ取り早い私を知ってもらう為のコミュニケーション方法だから。



「よくここまで来たね」

数秒後、私の内部を読み終えると 相手の人はテレパシーでそう伝え、

優しく 微笑んでくれました。

微笑み終えると その人は再び 私の隣に居るガイドに顔を移し、

「今は無理なのでもう少し・・・私が呼ぶので、その時もう一度 連れて来てくれますか?」

と伝えてきたのでした。


その後、

当時長時間肉体を離れていることが危険だった私は、

ガイド達によって再度肉体に連れ戻され、

・・・どの位の時間が過ぎたのか、

2度目の<肉体出>を 一度目と同じ様に手を引っ張られながら行い、

再び時間・空間のない 摩訶不思議な世界を通ってゆき、

やがて ひとつのビルが見え、

その中の一室で、

少し前に初対面した 先程のとある人が 今度はひとりで立っていたのでした。




無事目的地まで 私を運ぶことが出来ると、

そこでガイド達は 私をその人に預け 姿を消してしまいました。




取り残された私は、ここで再びとある人に 瞳を見つめられ。


「少し、追われているようだね(ここでの「追われている」とは「よろしくない存在」を指差しています)。
 ここでは見つかりやすいから、少し場所を移動しよう」

と提案され、私は 促されるままに 身を任せていました。

相手の人が 腕をひと振りふた振りすると、

同じ場所でありながらも空間(次元)が変わってゆきました。


それはとても不思議な感覚で経験でもありました。




一定ラインの次元を超えたところから、

私の瞳に映る景色に 変化が現れ、

そこでは 揺れ動く陽炎のような、不安定にも感じる景色が 広がっていました。


そこは 景色が絶え間なく 変動する世界。

景色の自由自在な変化が 起きるかのような世界でした。


ここにきて やっと少しは安心できたらしく、

私の隣に居る人物は 再び私に話し掛けてきました。


そして 「話すより見た方が早いから」 と、

とある光景をみせてくれたのです。




続きます



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